7日間ブックカバーチャレンジ【中編】

2021年5月25日火曜日

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まずは【前編】から、お読みください→(こちら)

 この【中編】では、「7日間ブックカバーチャレンジ」の4冊~6冊めをご紹介。

 改めて振り返ると「私の選書、なかなかナイスじゃん!」と感じます(自賛)。どれも「世界観を豊かにしてくれる本」ばかり。

 最近、書店に行くと「あなたは、そのままでいいんだよ」的な自己啓発本(自己慰安本?)をよく目にしますが、

 「そのままのあなたでもいいけれど、認識の幅を広げるだけで、世界はずいぶん豊かに感じられるよ」と思わせてくれる本を、これからも読み続けたいデス。

 それでは、元気よく行ってみよう!


4) ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』(岩波書店)

 こちら、「認識におけるコペルニクス的転回(byカント)」を促すための、最適な1冊。ほんと、世界の見え方が変わりますョ。

 本の内容をひとことで言うと、「生きものは、同じ『環境』に身を置いていても、それぞれまったく異なる『環世界(独:Umwelt)』を持っている」ということ。その事例紹介が、ダニ(にとっての「環世界」)に始まって、ウニにヤドカリ、鳥やイヌ、クマ…と、この薄い冊子の中に盛りだくさん。

 ん? 環世界って? 要するに「その生きものが、その生きものにとって意味のある事象(のみ)によって作り上げる、その生きものだけの認識世界」のこと。

 その一例として「イヌにとっての部屋」「ハエにとっての部屋」「ヒトにとっての部屋」の比較をしています。

 同じ部屋に居たとしても、それぞれ「意味あるものとして知覚が捉える対象」が、まったく違う(=環世界が異なる)。ハエにとっては「ランプの灯り」と「テーブル上のお皿に盛られた食べもの」以外の情報は、まったく意味を持ちません(知覚センサーが認識しない=環世界に含まれない)。

 これ、ごく当たり前のように聞こえるかもしれませんが…。そんな人こそ、一度はこの本に目を通してみてください。

 日常において私たちは、目の前の動物の行動様式を把握しようとするとき、「その生きもの独自の認識世界(環世界)が存在することに、全く思いが及んでいない」という事実に気づくでしょう。

 本書の豊富な図版のうち、1つだけ挙げてみます(最後に登場する図版)。

(ある天文学者の環世界)

 画面の中央やや左、望遠鏡をのぞきこんでいる天文学者が見えますか? その周囲には彼/彼女ならではの、豊かな環世界が広がっていますね。

 さて、あなたは日々、どんな環世界を描いて生活しているでしょうか。

 訳者(動物行動学者の日高敏隆)による“あとがき”も、含蓄に富んでいます。

 「人々が『良い環境』というとき、それはじつは『良い環世界』のことを意味している。環世界である以上、それは(知覚する)主体なしには存在しえない。それがいかなる主体にとっての『環世界』なのか、それがつねに問題なのである。」


5) 宇田川元一『他者と働く』(NewsPicks)


 『生物から見た世界』を紹介したなら、次はこれ。人間(という生きもの)の社会において、「協働して事を成すこと」を促進する/妨げる要因を、それぞれの脳内にある「認識のズレ」から説き起こした本です。

 「“わかりあえなさ”から始める組織論」という副題が秀逸。平田オリザ氏の著作にも通じますね。

 本書で頻出する2つの重要概念は「ナラティブ(narrative, 物語)」と「ダイアローグ(dialogue, 対話)」。

 曰く「それぞれの人の中には、それぞれ固有の『物語』が存在している。もしも社内トラブルが『論理的・技術的な方法』で解決できない場合、それはほとんど『物語の構造の差異(ズレ)』に起因している。ゆえに、そのズレを認識するための『観察』と『対話活動』が重要になってくる…」といった内容です。

 さて、この本を改めて読み返すと、「これから社会に出る10~20代前半の人には、あまり役立たないかも?()」という考えが頭をよぎりました。というのも、今後一般的になっていくであろうジョブ型雇用においては、プロジェクトに関わる人それぞれの「物語」に配慮する必要性は、さほど高くないと推察されるからです。

 ただ、仮にそうであっても、親しい友人や家族(パートナー)といった「関係性の解消が考えにくい相手とのコミュニケーション」に対しては、たいへん有効な視座を与えてくれます。

※医療や介護職、学校教育、ソーシャルワーカーといった「対人支援業」は別です。相手のナラティブに寄り添うことは、仕事をするうえでの大前提。また、一般企業でも「若者を雇う側」の、おじさん・おばさんたちは意識したほうが良さそうです

 とにもかくにも、経営論の書物としては異色の1冊。いまだメンバーシップ型雇用が主流の、日本ならでは?

 「自分のナラティブ(物語)を脇に置き、対話を通じて相手のナラティブに寄り添う」といった心理学的アプローチが、組織の課題解消法としてクローズアップされるあたり、きわめて「日本的」と言えるかもしれません(海外のことは知りませんが)。


6) 影山知明『ゆっくり、いそげ』(大和書房)

 今回取り上げた7冊のうち、もっとも要約が難しい本!



 それもそのはず、これは著者の影山さん(元マッキンゼー、現在はカフェ店主)が展開している

 「『新しい経済』(=人のつながり)に向けた、さまざまな実践活動の記録」

…だから。

 「アクションしてから、その行為の意味を考える」といったことの繰り返しなので、むしろ1冊にまとまっているのが奇跡、と思えます。

 そこで安易な要約はやめて、まずは章立て(全7章)を記載してみます。そうすることで「著者はいったい、何を課題としているか?」が見えてくるはず。


 第1章 1キロ 3,000円のクルミの向こうにある暮らしを守る方法

 第2章 テイクから入るか、ギブから入るか。それが問題だ

 第3章 お金だけでない大事なものを大事にする仕組み

 第4章 「交換の原則」を変える

 第5章 人を「支援」する組織づくり

 第6章 「私」が「私たち」になる

 第7章 「時間」は敵か、それとも味方か


 こんな感じ。

 本書の副題が『カフェからはじめる、人を手段化しない経済』というのも、現在主流の経済活動(ビジネス)がもっぱら「人を手段化している」という、影山さんの問題意識から発したものと理解できますね。

 「ファスト経済」と「スロー経済」の両方を知悉する影山さん、その視点は、私(たち)の固定観念に固まった脳みそを、やさしくほぐしてくれます。

 第6章「『私』が『私たち』になる」というのは、私(コーゾー)自身がこの数年間、最大の課題としていること。

「どう生きる?」の前に考えたい、「誰と生きる?」「どの土地で生きる?」

 本書から、印象的な部分を引用してみます。

(手を加えたくなかったので、長い引用となることをお許しください)


 「私たち」とは、どこまでか

 ぼくやクルミドコーヒーのこれまでの経緯は、まさに「私たち」が広がってきた過程と捉え直すことができる。

 2008年1月、ぼくは一人だった。
 2月4日、「カフェ マメヒコ」の井川さんと出会う。
 やがて、吉間君に会い、古橋君に会い、北村さんに会う。

 こうして1人だった「私」は、他の「私」と出会い、少しずつ「私たち」になっていく。
 10月1日、クルミドコーヒーのオープン。当初の1日あたりのお客さんの数は、50人ほど。苦戦しながらも中には繰り返し訪ねてくださる方も現れ、そうした方々にお店が支えられていることを感じ、自分にとっての「大事な人」の範囲は広がっていく。

 2年目、3年目、4年目……。チームに新たに加わってくれる仲間が現れ、幸いなことにお客さんの数も徐々に増えていく。


 そして2012年、地域通貨「ぶんじ」の取り組みをきっかけとして、それまでその存在は知りつつもほとんど交流のなかった地域の中の他のお店や農家さん、デザイナーさんや地域福祉に取り組む人たちなど、「私たち」の範囲はぐっと広がる。

 今やときには、その「私たち」のイメージとして、隣の国立や立川、小平や小金井の仲間たちの顔が思い浮かぶこともあり、その半径が少しずつ広がっていることを感じている。


 「私たち」が広がるということ――それはすなわち「私」にとって「大事な人」の範囲が広がるということであり、他人事ではない関心を持つ社会の範囲が広がっていくということだ。「私」の範囲が広がると言ってもいい。私のまわり、それもまた自分の一部だという具合に。

 たとえば今、ぼくは西国分寺に対して愛着を感じている。ただそれは「西国分寺」という何か抽象的な存在に対して感じているということではなく、あの人とこの人とその人と、といったきわめて具体的な一つひとつの「私」の集合体としての地元に、そしてそれらを存在たらしめてくれている総体としての地元に、愛着を感じているのだ。

 そして、この愛着は最初からあったものではない。日々お店を営業し、お客さんと出会い、新たな縁や関係性に出会うたびに、この愛着もまた育ってきたものだといえる。

 そして今では、そうした縁や関係性は、自分の一部だという感覚ですらある。

(引用おわり)


 さて、この文章からあなたは何を感じましたか? 

  …と、当ブログの読み手をほったらかしにして、この項目を締めたいと思います。

 「クルミドの朝モヤ」、こんどオンラインで参加してみよう。 https://ameblo.jp/kurumed/


(後編につづく!→【こちら】)

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