『脱ア論』ーアメリカ的進歩観からどう脱け出すか、という話

2021年1月12日火曜日

t f B! P L
※タイトルはもちろん、あの有名な批評文の翻案(ほんあん)です

なんかすごい絵を見つけた、というだけの理由で記事を書きます。

ほんと、衝撃だったので。サイズも特大にしてみる(※ぜひ、PCのモニターでご覧ください)。

これ、手元にあった世界史資料集(帝国書院『タペストリー』 p.206)で見つけました。

American Progress
by John Gast (1872)

 絵の題名はずばり「アメリカの進歩(American Progress)」。

 ここに描かれているのは…

 19世紀当時の、アメリカ及び西ヨーロッパ諸国で支配的だった思想「Manifest Destiny(明白なる天命)」、すなわち

 ”高度な文明を持つ国家が、未開の国・地域の人々を従属させることの正当性”が、寓意(ぐうい)として表現されています。

 ただし後述するように、「高度な文明」という表現には疑問符がつきます。

 単なる「地下資源依存型の機械文明」、言い換えれば「工業製品や兵器を、安定した品質で大量に作れる社会システム」に過ぎないのでね。

 (「Manifest Destiny」について、詳しくは→こちら

 絵の中央に描かれた女神は「自由の女神」ならぬ「進歩の女神」。

 彼女自身が電信線(=通信回線)の端を持ち、鉄道や幌馬車、農耕技術者を従えて、ヨーロッパ発祥の「文明の光」を西へ西へと運んでいきます。

「進歩の女神」は、機械文明の守護神


アメリカ建国の地・東海岸から西へ西へ
(クリックすると、NHKの公開動画へ飛びます)

 しかし、その文明は先住民たちを追い立てる(居住地から追い出す)ものであり、彼らの暮らしを支えるものではなく。

 文明の光を未開の地に届ける、たとえ暴力的な手段を使ってでもというのが、入植者たちにとっての「天命(Destiny)」。この思想的背景をもとに、ヨーロッパ各国では「アフリカやアジアの植民地支配」が、アメリカにおいては「”開拓”という名の収奪」が正当化された、というわけです。

生活の場を奪われる
先住民と野生動物
(絵の一部を拡大)


対白人ゲリラのリーダー
通称「ジェロニモ」

 先ほどの絵が描かれたのは1872年。その20年前、江戸時代の日本を開国に導いたペリー提督の態度も、この「Manifest Destinyの精神」に支えられていたのでしょう。大統領からペリー提督に渡された指令書からも、そうした思想が読み取れます。

 後世から見れば、よくぞ日本は欧米諸国の植民地にならなかったものだ、と思いますね。

 (現在の日本はアメリカ51番目の州、なんて言われたりしますけど)

Matthew C. Perry (1794-1858)
彼の遺した『日本遠征記』、読んでみたい


このお二人(出口氏、半藤氏)は、
「江戸幕府の老中・阿部正弘は偉かった」
という意見で一致


 ペリー率いるアメリカ艦隊、いわゆる「黒船」の来航(1853年)は、日本の歴史を大きく変えました。

 蒸気で駆動する巨大軍艦が4隻、浦賀沖(神奈川県横須賀市)に突如現る!

 これはもう「近代文明という化け物が、いきなり目の前に現れた!」という、強烈なインパクト。

(【参考】「使徒(シト)、襲来」)

 アメリカの軍艦からは大砲が向けられ、「貿易のための港を開きなさい!」「返答によっては、砲撃も辞さないぞ!」等々。

 それまで日本は長らく鎖国体制を敷き、ヨーロッパの覇権競争からは距離を置いていましたが、新興国・アメリカの強圧的な態度によって、振る舞いを改めます。

※伝統あるヨーロッパ諸国(オランダ、イギリス、フランス…)には見られない強圧的な態度、これも現在まで続くアメリカの気風でしょうか。

長州藩、アメリカ+フランス海軍にケンカを売ったが
逆に砲台を乗っ取られましたの図(1864年)


 いっぽうで、日本のすごいところは「変えると決めたら一気に変える」、文字通り「根こそぎ変えてしまう」ところ。

 産業、軍隊、生活文化、銀行や証券取引の仕組み、それらを支える法律・政治システム等々、ありとあらゆる「近代文明の要素」を猛スピードで取り入れます。

 それから150年、作家・司馬遼太郎が言うところの『坂の上の雲』を目指し続けた結果、紆余曲折ありつつも現在に至った、というわけです。

   

予告動画(↑)の最後のほう、

モッくんのセリフが聞き取れない…気になる

 

 黒船の出現から170年、明治維新からは150年余り。「西洋起源の機械文明」というパラダイム(paradigm)は、強固な「思考の型」として、日本人にすっかり定着しました。

 私の世代(いわゆる第2次ベビーブーム世代)が受けた学校教育も完全にこの路線上ですし、私自身、その路線のトップランナーとして走っていた時期もあります。

 しかし、今になって振り返ると…。

 人類の存続、そのための「持続可能性(サスティナブル)の追求」という観点から見れば、「文明の力」に押し流されたネイティブ・アメリカンの暮らしこそが(あるいは、江戸時代の日本人の暮らしが)模範となるのは皮肉なことです。

 正義っていったい、何なんでしょう?

 私はネイティブ・アメリカンの暮らしについて、大した知識を持ち合わせていません。その乏しい知識のなかでも印象深いのが、彼らにはもともと「土地の所有」という概念がなかったこと。

 手元の書籍から引用します。

(下記で「インディアン」と表現されているのが、ネイティブ・アメリカンのことです)

 もともと、新大陸の広大な土地は、(入植者たちには)最初から、不動産投資あるいは投機の有利な対象として、明確に意識されたのである。しかし、インディアン側には、土地の個人所有、永続的なタイトル(所有権)という概念が、全く欠けていた。一般的にいって、すべての土地は、部族全体の共有であり、農耕も、共同作業ふう(コミュナル)に行われた。母なる大地を人工的に分割所有し、使用の有無にかかわらず、他人に狩猟も一時的農耕も許さないという、白人達の土地所有の概念は、インディアン達の理解の外にあった。「土地は、 水や空気と同じことだ」と彼等はしばしばいったという。

藤永 茂『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書、1972年)


 なぜ個人や企業が土地を分割所有し、排他的な利用権を主張できるのか? 私自身、ずっと不思議に思ってきました。

 生態系の破壊や気候危機を生み出す主たる要因には「土地の利用方法が、持続可能でないこと」も挙げられます。

パームヤシのプランテーション

 人間が、「開発」という名において風景を作り上げるとき、そこには何らかの「思想的背景」、くだけた言い方をすれば「無意識の思い込み」があります。あまりに根深くて、自分では気づかないタイプの思い込み。

 前回の記事で書いた「あらゆる生き物との共生社会」を築くには、どんな思い込みを捨て去る必要があるのでしょう? 「文明の転換期」を迎えた今、1つ1つ検証していきたい。

 土地利用に関していえば、昨今ふたたび注目を集める「コモンズの思想(共有地、入会地)」、私たちはこれから、真剣に考える必要がありそうです。

*19世紀の日本でも、私たちのご先祖が、北海道の先住民(アイヌ)の生活圏を収奪していきました。当時の日本人とアイヌとの交渉史も、きちんと勉強してみたい。

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 最後にもう1度、くだんの絵画を貼り付けます。

 こうした絵が(あるいは、事態が)目の前に現れたとき、周囲の反応がどうであれ、「なんかおかしいぞ、これ」と感じ取る力は、失わずにいたいものです。

 昨今の日本、政治的に不安定な時期は、特にね。

 そこで、令和3年の自分に向ける警句…

 「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」(茨木のり子)

これは読みたい! 図書館で探そう。
別冊太陽『茨木のり子
~自分の感受性くらい~』


今回も長文におつきあいいただき、ありがとうございました<(_ _)>

それでは、また!

 コーゾー


【追伸】ちょうどこの記事を書いていたら、アメリカ連邦議会でとんでもないことが起こりました。

 【BBCニュース】トランプ大統領の支持者ら、議事堂に乱入(2021/01/07)

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-55570157

 この事件、今回の「Manifest Destiny」との直接の関連はありませんが、

 人という生き物は「冷静に見れば”狂気”であることを、”正気”の行為であると、たやすく思い込んでしまう存在」ということを、改めて思い知りました。

 同質集団の中に埋没することで、狂気が狂気でなくなる。

 日々の生活の中で「この集団を包んでいるのは、”狂気”では?」と疑うことも、やはり必要だと痛感します。

 まったく違う話に聞こえるかもしれませんが…。例えば、日々使っている暖房器具。

 近くに手入れが必要な山林があるのに、遠い国から石油や天然ガスを運んできて、発電所や家庭で燃やす。

 これ、冷静に考えたら”狂気の沙汰”としか思えないんですよね。日本人全体を包んでいる”狂気”。どれだけCO2を出せば気が済むんだよ、っていう話ですし。

 皆さんは、どう思われますか?

 以上、自分が正気なのか狂気なのか、たまにわからなくなるコーゾーでした。

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