Tapestry ~ 生態系の一部としての私

2020年12月30日水曜日

t f B! P L

はい、まもなく令和2年も終わりです。

皆さま、どんな1年でしたか?

昨日(12/29)はオンラインで、超ディープな「1年の振り返り」をしました。

(こういうやつ↓)

「40人のビジネスパーソンが絶賛した『1年の振り返り』完全マニュアル」

https://ix-careercompass.jp/article/240/


京都の有名人まっくすさん=東さん主催のイベントです。

(まっくすさんは、こんな人。今年も大車輪のご活躍でしたねー)

私、どこかに居ます。髪の乱れ…


イベントはAM10:00スタート、PM4:00終了。各自の振り返りタイム、なんと1時間!

4人1組になって、1年間のあれやこれやを話して&聴いて、あーすっきり。

皆さん、濃ゆーい1年でしたね。


「ぜんぜん大したことないです」と前置きする人ほど、中身がスゴい説。

来年もぜひ、またやりたい。


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私のグループでは、なぜか「滋賀愛(We Love 滋賀県)」というキーワードで盛り上がりました。メンバー4人中、1人しか住んでいないのに。謎。

やはり「中心に人間がいない土地」って素敵だ。←勝手な解釈

「すべての水は、琵琶湖に通ず」


私は今回、印象深いトピックの1つに「広井良典氏による、京都新聞5/21のコラム」というのを挙げました。

「1つのコラムが、そんなに印象深かったの?」 …はい、とっても。

私自身の「滋賀愛」とも通じるのですが、今後10年で急速に広がっていくであろう

「人間中心“ではない”世界観」

言い換えると

「あらゆる生き物との共生を、社会設計の中心に置く時代」への“兆し”を、この記事から感じとりました。

*このブログの末尾で、もうすこし詳しく(理屈っぽく)書きます。

広井良典『定常型社会』(岩波書店、2001年)
広井氏の数ある著作中、
最初の1冊としておすすめ


5月21日の京都新聞、切り抜きを残していました。当該コラムから引用します(ちょい長め)。

広井良典『情報から生命へ』(京都新聞 令和2年5月21日 夕刊)

 (前略)
 一般に科学・技術の発展は、基礎理論→技術的応用→社会的普及という形で進んでいく。1990年代前後から、通信技術の急速な展開と相まって「情報」は飛躍的に社会の隅々に浸透していくこととなった。 
 
 しかし科学の大きな流れを俯瞰(ふかん)すると、「情報」はすでにある種の成熟期に入っており、むしろその次の段階、いわば「ポスト情報化」の時代を考えていくべき時期になっている。
 
 そして、「情報」の次なる基本コンセプトは何かと言えば、それは明らかに(この世界でもっとも複雑かつ根源的な現象としての)「生命」に他ならない。

 この場合の「生命」とは、ミクロのレベルのみならず、生態系や地球環境の多様性といったマクロの意味も含んでいる。 

 (中略)

 私たちは、ひと回り大きな視点から「生命」というテーマを考えていく時代の入り口に立っている。英語の「ライフ」が「生活、人生」という意味を含むように、そこでは社会的な次元も含めた幅広い探求や対応が求められる。

 今回のコロナをめぐる動きを契機に考えていくべきは、そうしたこれからの時代の大きな展望ではないだろうか。 

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このコラムが出た前後、私もちょうど、こんなことを書いていました。
鴨川で、トビ(トンビ)にパンをさらわれた話。


私の肉体の一部になるはずだったパン。
それが、勇敢なトビさんのごはんに。
それはそれで、ふだんどおりの「生命(いのち)の営み」。

包装用のビニール袋だけ手元に残り、ホッとしたことを覚えています。
間違って呑み込んだら、トビさんもたいへんだからね。
「異物」を作るのは、ヒトという生き物だけ。ホントすみません、って感じで。

生命は、この惑星の上で、すべてつながっている。
(日々の食品もすべて、生命から)

「地球システムの一部としての私」という自覚を、ひとつひとつの行動に込めていきましょう。

私たちの日々の振る舞いの蓄積が、これからの地球システムに、ひいては子どもたち世代の自然環境に、多大な影響を与えます。

このWWFの広告、何度でも紹介するよ


今年もお世話になりました。

私=コーゾーという、1個の生命体を含む「生態系」を織りなしてくださった皆さんに、心より感謝いたします。

まだまだウィルスの流行は続くようですが、体調にはくれぐれも留意され、元気でお過ごしください。

では最後に、冬になるといつも聴きたくなる曲を。

生態系のつながりと、自分史のメタファーとしての“Tapestry”。←これまた、勝手な解釈

遊佐未森『タペストリー』(1998年)
 *本来は初夏の歌ですが(ひなげしの花が咲くころ)、私にとっては「冬のお散歩ソング」の定番なのです、ご容赦を。


今年も、たくさんの出会いに感謝。
皆さま、また令和3年にお会いしましょう。


↑これ、誰が書いてくれたやら分かりませんが(ノブさん?)
来年も レッツ、コーゾー!!


【めっちゃ長めの追伸】
 少し理屈っぽいことを…。「あらゆる生き物との共生社会への転換」について。

 人類の歴史をひもとくと、「知識は力なり」のベーコン(1561-1626)、「我思う、故に我あり」のデカルト(1596-1650)以来、近代合理主義の精神が人類の発展(とされるもの)を牽引してきました。

 その精神を体現したヨーロッパ諸国+その出先としてのアメリカが、科学の制御という意味での進歩(とされるもの)の中心地域となります。

 そこに通底していたのは「自然を都合よくコントロールするため、科学および技術革新を追求すべし」というテーゼ(=命題)。自然環境は、人間から見れば「理解され、支配される対象」となります(極端に言えば)。

 自然環境を「人間を含めずに」、また「人間にとっての経済価値の源泉として」認識するという、ヘンな世界観の流行が現在まで続いている、とも言えるでしょう。


 19世紀に入ると、この「自然からいかに『富』を引き出すか」というテーゼへの後押しが、(日本を含む)先進国の経済&社会システムにとって、暗黙の了解となります。

 …というか、後押しに成功した(日本を含む)一部の国々が、国力の増大=国際的発言力の強化という成果を得て先進国になりました、というお話。
(歴史用語でいう「帝国主義」「列強の時代」ですね)

 この過程で国と国との戦争が幾度も行われ、日本もずっと戦争当事国として振る舞い続けました(戦争は多くの場合、「資源争奪戦」として行われます)。

 この「『国』という単位で、強くなりましょう競争」の過程では、自然環境の維持・保全の大切さは、あまり考慮されませんでした。日本でいえば「環境庁」が「環境省」に格上げされたのも、ようやく 2001(平成13)年のこと。「○○省」というものが出来て150年ですから、つい最近です。「まずは物質的に豊かにならなきゃ」と、環境問題は後回しにされてきたのです。

 しかし1970年代以降、じわじわと「限界」が見えてきます。資源枯渇に気候危機…。そこに、今回のコロナウィルスの流行→経済活動の停滞。

 これを機に、「では今後、どんな世界観でもって活動すればいいのか?」が、鮮明に見えてきた感があります。
 ※この部分、印象には個人差があります…。実際、かなりの差がありそう。2011年の東日本大震災の時もそうでしたが、あそこで価値観の大転換が起こった人もいれば、ほとんど変わらなかった人もいますよね。

 すでに1970年代には『成長の限界』ということが言われていたけれど、「では、どうすればいいのか?」までは、広く共有できていなかった印象があります。

 2010年代以後、ようやく形になったパリ協定(気候変動抑制に関する多国間合意)やSDGs(エスディージーズ)、あるいは世界経済フォーラムのアジェンダ「The Great Reset」というのは、
 
 「グローバルな(地球上の、すべての生き物を考慮に入れた)『共生』の時代に、いよいよ変わる。…というか、早く変えないことには、人類の未来が危うい」という、リーダーたちの危機感の現れ。

 この辺りの歴史的経緯、そして今後の展望を知るには、やはり今回のコラムの筆者・広井良典氏の著作がおすすめです(完全なる受け売り、とも言います)。

『ポスト資本主義~科学・人間・社会の未来』(岩波書店、2015年)


はい、今度こそ記事は終わりです。

こうやって書いてみると、「数百年単位での“人類の転換期”に、たまたま立ち会えている喜び」を感じますね! わくわく。
※こちらも、印象には個人差があります。

では、最後にひとこと。やや挑発的かもしれませんが、過去の歴史を見渡しても「二度とこんなセリフは吐けません」ということを、せっかくなので。

<エコーきかせて>
「みなさーん! 世界観の切り替え、もう今年のうちに 済ませましたか~?」

(まだ切り替えていない人たちは、これからいろいろ、大変だろうな…。)

しっかりと切り替えを済ませた皆さん、
また来年、笑顔で会いましょう!

コーゾー

QooQ