令和5年、今年の漢字:「介」と「仁」

2023年12月31日日曜日

t f B! P L
北区上賀茂の西村さんに
作り方を教わった注連縄(しめなわ)です

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 師走の恒例・今年の漢字は「税」なんだそうで(12月12日、清水寺にて発表)。

 なぜ「税」?と、首を傾げてしまいましたが、こちらはしょせん他人の撰。べつに気にしないことにして、自分ならどの文字を撰ぶだろうか…。

 というわけで、頭に浮かんだ(甲乙つけがたい)2つの漢字を挙げて、コーゾー・令和5年(2023)のまとめとします。

今年の漢字、その1:「介」

 令和5年、今年いちばんの収穫は"care"(ケア)の概念との出会い。正確には「出会いなおし」というのかな(元・テレビ局の福祉番組制作者としては)。

 そんなわけで、「介助」や「介護」という用語で使われる「介」の字を撰びました。

 「介;ケア」を再考するに至った契機は複数あるのですが、「公共哲学」や「倫理学」のカテゴリーに含まれる書物を読み漁るうちに、

 「マチズモが異様にはびこる『ヘンな時代』を終わらせるには、あらゆる対人関係の中核に、"careの精神"を置くべきでは?」という、なにやら確信めいた感覚が湧いてきたのです。

(このあたり、まだうまく言語化できませんが)

 こうした発想に至るプロセスで、実際に読んだ本(の、一部)を挙げると、

 川本隆史『<共生>から考える』
 齋藤純一,谷澤正嗣『公共哲学入門』
 ジョアン・トロント『ケアするのは誰か?』
 竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』
 
…などなど。

 また、現代ケア論の嚆矢(こうし)とされる

 キャロル・ギリガン『もうひとつの声で』

も必読ですが、こちらは図書館にて取り寄せ中。はやく読みたい。

 目の前の相手を支援する行為に用いる「介」の字は、日本の医師や教師が示しがちなパターナリズム(権威を前提とした教示の姿勢)とは異なり、「主体性はあくまで相手の側にあり、黒子としての支援に徹する」ということを含意しています(私の認識では)。

 明治時代(1868年~)以来の日本の歴史は、政治も経済活動も(医療や教育も)、一貫してパターナリズムを基軸として進んできました。第二次大戦後に至っても、そうした思想を前提とする政党が長く政権を運営、その影響もあって「固定化されたタテ関係」+「極端な男性優位の構造」が、いまだ日本社会に深く埋め込まれています。

(その証拠に、日本のジェンダー・ギャップ指数は、先進国と呼ぶに値しないお粗末なレベルです)

 そんな状況を踏まえて、

 「時にケアし時にケアされる、水平的な関係を築いていこう。パターナリズムから距離を取るために(→抑圧者にも、被抑圧者にもならないために)。そのことが長い目で見て、日本社会の閉塞感を払拭していくはず。」…といったあたりの認識を、来年はさらに深めていきたいです。

(なお、ケアし・ケアされる関係を取り結ぶのは人間同士とは限りません。今年は畑で野菜を育てながら、「ケア」のことも考えていました)

 そしてもうひとつ、「介」の概念に通じる出来事として、立岩真也さん(故人。障害社会学。1960-2023)の人と仕事に出会ったことも大きいです。

 こちらは(いろいろありすぎて)手短に語ることができないので、また別の機会に。

今年の漢字、その2:「仁」

 もうひとつは「仁」。簡単に言うと「思いやりの心」ですね。中・高時代に「漢文」を熱心に学んだ方はご存じでしょうが、孔子とその弟子たちの言行録である『論語』を貫く、中心概念です。

 以前から「『論語』や儒教は大嫌い」と公言していた私ですが、桑原武夫(1904-1988)の註釈による『論語』をたまたま手に取り、考えを(少しだけ)改めました。桑原もまた、もともと「論語ぎらい」を標榜していた人物です。

 この書(ちくま文庫の『論語』)で展開される率直な是々非々(ぜぜ・ひひ)に触れることで、「なるほど、倫理体系としての儒教には抵抗があっても、部分的に共感できる点は見つけ出せるのだな」と、ほど良い距離感で読めるようになりました。たとえば…

【子罕 第九の二十九】
 子曰わく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず。

(桑原武夫による解説)
 「知者は学問をしてその目が明らかに冴えているから、惑うことがない。仁者は人間を愛し、究極において善意の勝利を信じているから、憂えることがない。勇者はおのれ一個のためにではなく、天下のためによき決意をしたのだから、いかなることがあっても恐れないのである。」

 「仁」の概念を扱ったこの一節、「介」との出会い直しと相まって、自分の至らなさに気づかせてくれました。

 私自身、「知・勇」に関してはそれなりに研鑽を積んできた(つもり)ですが、根本的に欠けているのは「仁にして、憂うことなし」の精神。「すべての人の根底にある、善意の光を信じる」といった肚(はら)の据えかたは、齢50になりなんとする今も、まったく身に付いておりません。

 そんなわけで令和6年は

 ・行において「介」
 →相手の主体性を前提に、「良き生」に向けたサポートをする

 ・想において「仁」
 →相手の身になって、共感と労(いたわ)りの心を持つ

 そんな決意を胸に、新たな年を迎えたいと思います。

(10年前の尊大さに比べたら、自分はずいぶん変わったものだ、なんて思いつつ。他者からの評価は知りませんケド…)

 はい、そんな感じの大晦日でした。

 皆さんは「令和5年の漢字」に、何を撰びますか? それは、あなた自身が大切にしたい価値観を、端的に示すものかもしれません。

 それでは皆さま。また来年、笑顔でお会いしましょう!

 コーゾーでした。

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