(図書館に返さないといけないので)
借りてきたのは1984年の初版。
訳は西洋近代史が専門の川北 稔。
訳は西洋近代史が専門の川北 稔。
表紙絵は資本主義の特質である「蒐集」のメタファでしょうが、
なかなかのインパクトです。
なかなかのインパクトです。
ちなみに著者のウォーラーステインは、今年の9月に亡くなっています。
「世界システム論」の社会学者ウォーラーステインが死去
(huffingtonpost 日本版, 2019年9月3日)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/immanuel-wallerstein_jp_5d6dc286e4b09bbc9ef36cb0
I.ウォーラーステイン
岩波書店
売り上げランキング: 237,216
岩波書店
売り上げランキング: 237,216
なぜ、今この本なのか?
今更ながら、ではありますが「自分たちが好む・好まないに関わらず乗っかっている社会システム、その特質についてある程度はわかっていないと、大人として恥ずかしいでしょう」と思ったので。
(なぜみんな、自分たちが参加している social game の背景を知ろうとしないのだろう? まぁ、いいんだけど)
3時間で読み切ります。気になった部分を、ここに書き連ねていくよ。
(11/17 13:45 スタート、随時更新)
0-1.「日本の読者へ」
歴史上、資本主義的システムといえるものは、たったひとつしか実在してこなかった。したがって、それを叙述したり分析したりするには、何らかのモデルから演繹(えんえき)するような方法はとりえない。(中略)資本主義を、独自の個性をもった歴史的実在として定義することで、われわれは、現代世界の解釈を修正することになるばかりか、将来にむかっての戦略をも変更せざるをえない。私が日本の読者に期待したいのは、このような共通の作業に関心をもち、積極的に参加して下さることである。
0-2.「はじめに」
私にとってとりあえず重要なことは、資本主義をひとつの歴史的システムとして、つまり、その全史をひとまとめにして、その具体的で個性的な実態を見ることである。したがって、私はこの実態を叙述し、たえまなく変化するものと、まったく変化しないものとを、描き分ける仕事を始めたのである。
カール・マルクスについて一言。マルクス自身は自分の著作のなかに、(歴史上、現実には一度も存在したことのない)完全なシステムとしての資本主義の解釈と、そのときどきの具体的な資本主義世界の現状分析との緊張関係があることを承知していた。(だが)多くの人々はこの点を理解していないし、自称マルクス主義者の大部分も、この点を無視しているといわざるをえない。
Ⅰ 万物の商品化 --- 資本の生産
資本主義とは、何よりもまず歴史的な社会システムである。その起源や作用、当面の見通しなどを理解するためには、その現実のあり方を観察しなければならない。
実際のところ資本主義とはどんなものだったのか。それはひとつのシステムとして、どのように機能してきたのか。それはまた、なぜこのように発展してきたのか。これからどこへ向かって行きつつあるのか。
(私が)史的システムとしての資本主義(Historical Capitalism)と呼んでいる歴史的社会システムの特徴は、この史的システムにおいては、資本がきわめて特異な方法で用いられる(つまり、投資される)という点にある。すなわち、そこでは、資本は自己増殖を第一の目的ないし意図として使用される。
本書で「資本主義的」とよぶのは、資本保有者のこうした仮借のない、しかも奇妙に自己中心的な目標、つまりよりいっそうの資本蓄積と、この目標を達成するために資本の保有者が他の人びととのあいだに取り結ばざるをえなくなった諸関係のことである。
ちょっと長い眼でみて、資本蓄積がつねに他の諸目標より優先されているといえるなら、そこには資本主義的なシステムが作用していると言ってまちがいない。
資本主義は自己中心的なものだから、いかなる社会的取引も商品化という傾向を免れることはできなかった。資本主義の発達史には、「万物の商品化」へとむかう抗し難い圧力が内包されていた。
資本蓄積がすすみ、商品化される過程もどんどん多くなって、ますます多くの商品が生産されるにつれて、商品の買い手がそれに合わせて漸増していくことが、全体の流れを維持するための不可欠な条件となった。
破産こそは、資本主義というシステムの強力な浄化剤であり、すべての経済主体をして、すでに十分踏みならされた轍(わだち)から、常に大きくは離れられないようにしてきた。
史的システムとしての資本主義とは、諸々の生産活動を統合する場であり、時間と空間の限定された具体的な存在である。そこでは、あくなき資本蓄積こそが重要な経済活動のすべてを支配する目標、ないし法則となっている。それはまた、はじめからこの法則に沿って活動してきた人びとが社会全体に決定的な影響力を及ぼし、他の人びとにしても、かれらの行動パターンに従うほかはない状況を作り出した。そうしない限り、報復を受けることは必至となったのである。
資本蓄積を至上命題とする生産者は、労働力については、相互に異なった二つの側面に関心を持っている。すなわち、それがどれくらい入手しやすいかということと、そのコストがどれくらいかということである。
市場が縮小傾向にある場合には、労働力が固定されている(fixed labor)という事実は、生産者にとって実質コストの上昇を意味する。逆にまた、製品市場が拡大局面にある場合にも、同じ事実は、生産者が利潤拡大のチャンスをつかみそこなうことを意味するであろう。
労働力を固定しないでおくことも、資本家にとってはそれなりに不利に作用することがある。(中略)自由な労働力というものは、しばしば生産者にとって、固定された労働力と比べると、労働者の時間あたりコストがかえって高くつく。
驚くべきは、いかに労働力のプロレタリア化(=賃金労働者としての無産化)が進行したかではなくて、いかにそれが進行しなかったか、ということなのだ。(中略)事実上、すべての成人女性と未成年、少年および老人の大部分を含めて考えるようにすれば、プロレタリアの比率は激減してしまう。
すべての現実的な目的にとって、活動の主体となる経済単位は世帯(household)である。労働者階級に対して生産的活動と非生産的活動の社会的区別が押し付けられるのは、こうした世帯構造の文脈においてである。
賃金労働者がぎりぎり受け容れることのできる最低水準の賃金というのは、当の賃金労働者がその全生涯にわたって身を置く世帯がどんなものか、という点にかかっている。
現金収入が絶対に不可欠だという状態は、多くの場合、法律によって作り出されたものである。
雇い主の側では一般に、自分の雇う労働者が完全にプロレタリア化した(何らの資産も持たず、賃金労働に頼らざるをえない)世帯よりは、半プロレタリア的な世帯に属していることを望む。 *資本主義システムがプロレタリア化を進行させるとしても、資本家階級がそれを求めているわけではない
生産諸過程の構造において、空間がハイアラーキー化(階層化)された結果、世界経済における中核と辺境への両極分解がどんどん進むことになった。この傾向は、資本蓄積の地理的分布の点でいっそう顕著である。
Ⅱ 資本蓄積の政治学 - 利益獲得競争
一目瞭然たる利益が目の前にあるとき、これを奪い合うのはやり甲斐のあることだと思いこむのはたやすい。逆に、こうした消費が長期的にはどんな利害をもたらすだろうかとか、それが生活状態をどのように変えるだろうか、などといったことを思い煩う人は、まずいないものだ。
国家機構こそは、史的システムとしての資本主義が生み出したもっとも重要な制度のひとつである。国家権力の掌握、ないし(必要とあれば)その強奪こそが、近代資本主義の歴史を通じてあらゆる政争の主役たちから、もっとも重要な戦略目標とみなされてきた。
このシステムが実際にはどのように作動するのかを仔細に見ると、経済過程において国家権力が決定的に重要な意味を持つことは歴然としている。いずれの国も、自国の国境を越える生産要素(人やモノ)の流れを管理する規制をちょっと変えるだけで、これらの(社会的分業の)メカニズムに影響を与えることができるようになった。
→商品の動き(原料や製品の輸入・輸出)、貨幣や資本の移動、労働力の移動、といったことを規制&緩和する点において
(したがって)ほんらい経済活動を行っているはずの生産者たちも、政治的な目標を追求することに執心してきた。政治活動の範囲を自国内に限定するなどということは、自己目的としての資本蓄積を追求している人びとにとっては、まったく話にならないことであった。 *これはまさに今、コーゾーが別方向での流れを作るべく、挑戦しているところ
(参考図書、というか図書館で次に借りる本↓)
何が国境を越えてもよいことで、何がいけないのか、また越えてよいといってもどういう条件の下でか、といった問題を処するひとつの方法は、じっさいの国境そのものを変えてしまうことである。 *20世紀初頭、日本国による中国東北部=満州の支配とかね。
国民とは何かという定義をめぐってイデオロギー動員をかけることで、国境変更は容易にもなれば難しくもなりえるのだが、この事実こそは、ナショナリストの運動に直接的な経済上の意味を与えた。
資本家でもある生産者の多くのグループにとって、コスト削減に決定的な意味を持つ支出、すなわち基礎エネルギー、輸送および情報伝達のための設備などは、主として公共資金によって開発され、維持されてきた。むろん、こうした社会的間接資本からは、ほとんどの人が多少とも何らかの利益を得たことは事実である。しかし、すべての人間が、そこから等しい利益を得てきたとはいえない。(中略)社会的間接資本の形成もまた、いっそうの資本蓄積とその集中に寄与してきた。
観念的には、資本主義には、国家機構から干渉を受けない私的企業家の活動が必然的に含まれている、と考えられがちである。しかし、実際にはそんなことが言える例はどこにもない。(中略)資本家はいろいろな方法で国家機構を利用する能力を持ってきたし、そうした能力を大いに頼りにもしてきたのである。
近代国家は、完全に自律的な政治体などでは決してなかった。国家というものは、ひとつのインターステイト・システムの不可欠な一部として発展し、形作られてきたものである。
主権の概念は、ひとつの国家機構が他の国家機構の活動に合法的に介入できる範囲には限界がある、ということを示すために持ち出されたものである。
民族集団の形成過程は全体として、特定の国の労働力形成の過程と結びついている。環境条件が悪くて生存のための短期的プレッシャーが割合強いところでは、資本蓄積者と、労働者の中でも特に抑圧されている階層との対抗は、言語や人種や文化の局面での闘争という形態を取る傾向があった。というのは、言語や人種や文化上の区分が、階級構成と高い相関性を示すからである。
史的システムとしての資本主義においては、資本蓄積者はいっそうの資本蓄積以上のことは望んでおらず、労働者は自らの生存と負担の軽減以上の目的はもちえなかった。このことを想起しさえすれば、近代世界の政治史は十分に理解できるだろう。
Ⅲ 真理はアヘンである --- 合理主義と合理化
労働力の配置換えを行うには、誰か積極的な個人が先頭を切って移住ないし職業替えをし、それに対して適当な報酬が与えられさえすればよい。それだけで、この民族集団(エスニック・グループ)に属する残りの人びとにとっては、世界経済における自分たちの位置を替えるごく自然な吸引要因となるのである。
資本主義にとって重要な意味をもつ合理化の過程をすすめようとすると、この合理化を実践する専門家からなる中間層、たとえば官僚、技術者、科学者、教育者などをつくりだすことが必要になった。(中略)こうした中間指導者層は、世帯の相続財産として相伝すべき本来の意味での「資本」はあまり持っていないから、自分の子供たちが将来の有利な地位を保障する教育コースに優先的に入れられるようにすることで、成功を確かなものにしようと努めてきた。この優先権は便宜上、「学力」というかたちで表示され、狭く解釈された「機会の均等」という概念によって正当化できると考えられたのである。こうして、科学的な文化こそは、資本蓄積者の最愛の法典となった。
(この章は、ちょっと端折って次へ)
Ⅳ 結論
ジャック・グーディが言うように、社会科学には幸福の度合いを測るメーターは存在しない。資本主義以前の社会システムのもとでは、ほとんどの人びとは小さな共同体のなかで生活していたわけだが、こうした共同体では一種の社会的規制が効いており、個々人にはその行動について選択の余地はあまりなかったし、そもそも社会的多様性そのものがあまりなかったと思われる。
史的システムとしての資本主義を打ち立てるためには、こうした小共同体機構の果たす役割をどんどん小さくし、最終的にはまったく無くしてしまう必要があった。
多くの地域で、かつて小共同体機構の果たしていた役割は、長期にわたって「プランテーション」によって代行された。つまり、企業家によって運営される大規模な政治・経済機構による抑圧的管理が一般化したのである。(中略)資本主義的な世界経済のもとにおけるプランテーションは、非常に効率のよい剰余価値収奪の形式だということができる。
既存のシステムの崩壊に伴う変化と、十分に管理された変革とを区別しなければならない。
世界のブルジョワジーが迫られているのは、史的システムとしての資本主義を維持するか、自殺をするかの選択ではない。保守的な態度をとって現在のシステムが崩壊していくのを傍観し、確かなものではないが、おそらくはより平等な世界秩序に変容してゆくのを許すか。 *消極的な容認、黙認
それとも、勇気をもって移行過程をみずから管理し(この場合、かれらはみずから「社会主義者」の衣裳をまとうことになるだろう)、少数派の利益のために、別の史的システムをつくり出そうとするのか。これこそが、世界のブルジョワジーが迫られている選択なのである。
世界の社会主義運動は、ほかならぬ「史的システムとしての資本主義」が生み出したものである。それらは、現在の史的システムにとって外生的なものではなく、その内部の過程から生み出された排泄物だったのである、したがって、そこにはこのシステムのもつ矛盾や束縛がそのまま反映されてもいる。これまでのところ、そこから逃れることはできていないし、今後もできない。これらの運動や国家がもっている欠陥や限界、ネガティブな影響などは、史的システムとしてのバランスシートの一部なのであって、いまだ存在していない仮説上の史的システム、つまり社会主義的世界秩序の属性ではない。
共産主義はユートピアであり、どこにも実在しない。(中略)わたしが関心を持つのは、歴史的・具体的なシステムとしての社会主義だけである。このような意味での社会主義は、平等や公正の度合いを最大限に高め、また人間自身による人間生活の管理能力を高め(つまり民主主義を進め)、創造力を解放するような史的システムでなければならない。
(17:15 終了)
読後、facebookに投稿した感想文を、そのまま貼り付けておきます。
0-1.「日本の読者へ」
歴史上、資本主義的システムといえるものは、たったひとつしか実在してこなかった。したがって、それを叙述したり分析したりするには、何らかのモデルから演繹(えんえき)するような方法はとりえない。(中略)資本主義を、独自の個性をもった歴史的実在として定義することで、われわれは、現代世界の解釈を修正することになるばかりか、将来にむかっての戦略をも変更せざるをえない。私が日本の読者に期待したいのは、このような共通の作業に関心をもち、積極的に参加して下さることである。
0-2.「はじめに」
私にとってとりあえず重要なことは、資本主義をひとつの歴史的システムとして、つまり、その全史をひとまとめにして、その具体的で個性的な実態を見ることである。したがって、私はこの実態を叙述し、たえまなく変化するものと、まったく変化しないものとを、描き分ける仕事を始めたのである。
カール・マルクスについて一言。マルクス自身は自分の著作のなかに、(歴史上、現実には一度も存在したことのない)完全なシステムとしての資本主義の解釈と、そのときどきの具体的な資本主義世界の現状分析との緊張関係があることを承知していた。(だが)多くの人々はこの点を理解していないし、自称マルクス主義者の大部分も、この点を無視しているといわざるをえない。
Ⅰ 万物の商品化 --- 資本の生産
資本主義とは、何よりもまず歴史的な社会システムである。その起源や作用、当面の見通しなどを理解するためには、その現実のあり方を観察しなければならない。
実際のところ資本主義とはどんなものだったのか。それはひとつのシステムとして、どのように機能してきたのか。それはまた、なぜこのように発展してきたのか。これからどこへ向かって行きつつあるのか。
(私が)史的システムとしての資本主義(Historical Capitalism)と呼んでいる歴史的社会システムの特徴は、この史的システムにおいては、資本がきわめて特異な方法で用いられる(つまり、投資される)という点にある。すなわち、そこでは、資本は自己増殖を第一の目的ないし意図として使用される。
本書で「資本主義的」とよぶのは、資本保有者のこうした仮借のない、しかも奇妙に自己中心的な目標、つまりよりいっそうの資本蓄積と、この目標を達成するために資本の保有者が他の人びととのあいだに取り結ばざるをえなくなった諸関係のことである。
ちょっと長い眼でみて、資本蓄積がつねに他の諸目標より優先されているといえるなら、そこには資本主義的なシステムが作用していると言ってまちがいない。
資本主義は自己中心的なものだから、いかなる社会的取引も商品化という傾向を免れることはできなかった。資本主義の発達史には、「万物の商品化」へとむかう抗し難い圧力が内包されていた。
資本蓄積がすすみ、商品化される過程もどんどん多くなって、ますます多くの商品が生産されるにつれて、商品の買い手がそれに合わせて漸増していくことが、全体の流れを維持するための不可欠な条件となった。
破産こそは、資本主義というシステムの強力な浄化剤であり、すべての経済主体をして、すでに十分踏みならされた轍(わだち)から、常に大きくは離れられないようにしてきた。
史的システムとしての資本主義とは、諸々の生産活動を統合する場であり、時間と空間の限定された具体的な存在である。そこでは、あくなき資本蓄積こそが重要な経済活動のすべてを支配する目標、ないし法則となっている。それはまた、はじめからこの法則に沿って活動してきた人びとが社会全体に決定的な影響力を及ぼし、他の人びとにしても、かれらの行動パターンに従うほかはない状況を作り出した。そうしない限り、報復を受けることは必至となったのである。
資本蓄積を至上命題とする生産者は、労働力については、相互に異なった二つの側面に関心を持っている。すなわち、それがどれくらい入手しやすいかということと、そのコストがどれくらいかということである。
市場が縮小傾向にある場合には、労働力が固定されている(fixed labor)という事実は、生産者にとって実質コストの上昇を意味する。逆にまた、製品市場が拡大局面にある場合にも、同じ事実は、生産者が利潤拡大のチャンスをつかみそこなうことを意味するであろう。
労働力を固定しないでおくことも、資本家にとってはそれなりに不利に作用することがある。(中略)自由な労働力というものは、しばしば生産者にとって、固定された労働力と比べると、労働者の時間あたりコストがかえって高くつく。
驚くべきは、いかに労働力のプロレタリア化(=賃金労働者としての無産化)が進行したかではなくて、いかにそれが進行しなかったか、ということなのだ。(中略)事実上、すべての成人女性と未成年、少年および老人の大部分を含めて考えるようにすれば、プロレタリアの比率は激減してしまう。
すべての現実的な目的にとって、活動の主体となる経済単位は世帯(household)である。労働者階級に対して生産的活動と非生産的活動の社会的区別が押し付けられるのは、こうした世帯構造の文脈においてである。
賃金労働者がぎりぎり受け容れることのできる最低水準の賃金というのは、当の賃金労働者がその全生涯にわたって身を置く世帯がどんなものか、という点にかかっている。
現金収入が絶対に不可欠だという状態は、多くの場合、法律によって作り出されたものである。
雇い主の側では一般に、自分の雇う労働者が完全にプロレタリア化した(何らの資産も持たず、賃金労働に頼らざるをえない)世帯よりは、半プロレタリア的な世帯に属していることを望む。 *資本主義システムがプロレタリア化を進行させるとしても、資本家階級がそれを求めているわけではない
生産諸過程の構造において、空間がハイアラーキー化(階層化)された結果、世界経済における中核と辺境への両極分解がどんどん進むことになった。この傾向は、資本蓄積の地理的分布の点でいっそう顕著である。
Ⅱ 資本蓄積の政治学 - 利益獲得競争
一目瞭然たる利益が目の前にあるとき、これを奪い合うのはやり甲斐のあることだと思いこむのはたやすい。逆に、こうした消費が長期的にはどんな利害をもたらすだろうかとか、それが生活状態をどのように変えるだろうか、などといったことを思い煩う人は、まずいないものだ。
国家機構こそは、史的システムとしての資本主義が生み出したもっとも重要な制度のひとつである。国家権力の掌握、ないし(必要とあれば)その強奪こそが、近代資本主義の歴史を通じてあらゆる政争の主役たちから、もっとも重要な戦略目標とみなされてきた。
このシステムが実際にはどのように作動するのかを仔細に見ると、経済過程において国家権力が決定的に重要な意味を持つことは歴然としている。いずれの国も、自国の国境を越える生産要素(人やモノ)の流れを管理する規制をちょっと変えるだけで、これらの(社会的分業の)メカニズムに影響を与えることができるようになった。
→商品の動き(原料や製品の輸入・輸出)、貨幣や資本の移動、労働力の移動、といったことを規制&緩和する点において
(したがって)ほんらい経済活動を行っているはずの生産者たちも、政治的な目標を追求することに執心してきた。政治活動の範囲を自国内に限定するなどということは、自己目的としての資本蓄積を追求している人びとにとっては、まったく話にならないことであった。 *これはまさに今、コーゾーが別方向での流れを作るべく、挑戦しているところ
(参考図書、というか図書館で次に借りる本↓)
何が国境を越えてもよいことで、何がいけないのか、また越えてよいといってもどういう条件の下でか、といった問題を処するひとつの方法は、じっさいの国境そのものを変えてしまうことである。 *20世紀初頭、日本国による中国東北部=満州の支配とかね。
国民とは何かという定義をめぐってイデオロギー動員をかけることで、国境変更は容易にもなれば難しくもなりえるのだが、この事実こそは、ナショナリストの運動に直接的な経済上の意味を与えた。
資本家でもある生産者の多くのグループにとって、コスト削減に決定的な意味を持つ支出、すなわち基礎エネルギー、輸送および情報伝達のための設備などは、主として公共資金によって開発され、維持されてきた。むろん、こうした社会的間接資本からは、ほとんどの人が多少とも何らかの利益を得たことは事実である。しかし、すべての人間が、そこから等しい利益を得てきたとはいえない。(中略)社会的間接資本の形成もまた、いっそうの資本蓄積とその集中に寄与してきた。
観念的には、資本主義には、国家機構から干渉を受けない私的企業家の活動が必然的に含まれている、と考えられがちである。しかし、実際にはそんなことが言える例はどこにもない。(中略)資本家はいろいろな方法で国家機構を利用する能力を持ってきたし、そうした能力を大いに頼りにもしてきたのである。
近代国家は、完全に自律的な政治体などでは決してなかった。国家というものは、ひとつのインターステイト・システムの不可欠な一部として発展し、形作られてきたものである。
主権の概念は、ひとつの国家機構が他の国家機構の活動に合法的に介入できる範囲には限界がある、ということを示すために持ち出されたものである。
民族集団の形成過程は全体として、特定の国の労働力形成の過程と結びついている。環境条件が悪くて生存のための短期的プレッシャーが割合強いところでは、資本蓄積者と、労働者の中でも特に抑圧されている階層との対抗は、言語や人種や文化の局面での闘争という形態を取る傾向があった。というのは、言語や人種や文化上の区分が、階級構成と高い相関性を示すからである。
史的システムとしての資本主義においては、資本蓄積者はいっそうの資本蓄積以上のことは望んでおらず、労働者は自らの生存と負担の軽減以上の目的はもちえなかった。このことを想起しさえすれば、近代世界の政治史は十分に理解できるだろう。
Ⅲ 真理はアヘンである --- 合理主義と合理化
労働力の配置換えを行うには、誰か積極的な個人が先頭を切って移住ないし職業替えをし、それに対して適当な報酬が与えられさえすればよい。それだけで、この民族集団(エスニック・グループ)に属する残りの人びとにとっては、世界経済における自分たちの位置を替えるごく自然な吸引要因となるのである。
資本主義にとって重要な意味をもつ合理化の過程をすすめようとすると、この合理化を実践する専門家からなる中間層、たとえば官僚、技術者、科学者、教育者などをつくりだすことが必要になった。(中略)こうした中間指導者層は、世帯の相続財産として相伝すべき本来の意味での「資本」はあまり持っていないから、自分の子供たちが将来の有利な地位を保障する教育コースに優先的に入れられるようにすることで、成功を確かなものにしようと努めてきた。この優先権は便宜上、「学力」というかたちで表示され、狭く解釈された「機会の均等」という概念によって正当化できると考えられたのである。こうして、科学的な文化こそは、資本蓄積者の最愛の法典となった。
(この章は、ちょっと端折って次へ)
Ⅳ 結論
ジャック・グーディが言うように、社会科学には幸福の度合いを測るメーターは存在しない。資本主義以前の社会システムのもとでは、ほとんどの人びとは小さな共同体のなかで生活していたわけだが、こうした共同体では一種の社会的規制が効いており、個々人にはその行動について選択の余地はあまりなかったし、そもそも社会的多様性そのものがあまりなかったと思われる。
史的システムとしての資本主義を打ち立てるためには、こうした小共同体機構の果たす役割をどんどん小さくし、最終的にはまったく無くしてしまう必要があった。
多くの地域で、かつて小共同体機構の果たしていた役割は、長期にわたって「プランテーション」によって代行された。つまり、企業家によって運営される大規模な政治・経済機構による抑圧的管理が一般化したのである。(中略)資本主義的な世界経済のもとにおけるプランテーションは、非常に効率のよい剰余価値収奪の形式だということができる。
既存のシステムの崩壊に伴う変化と、十分に管理された変革とを区別しなければならない。
世界のブルジョワジーが迫られているのは、史的システムとしての資本主義を維持するか、自殺をするかの選択ではない。保守的な態度をとって現在のシステムが崩壊していくのを傍観し、確かなものではないが、おそらくはより平等な世界秩序に変容してゆくのを許すか。 *消極的な容認、黙認
それとも、勇気をもって移行過程をみずから管理し(この場合、かれらはみずから「社会主義者」の衣裳をまとうことになるだろう)、少数派の利益のために、別の史的システムをつくり出そうとするのか。これこそが、世界のブルジョワジーが迫られている選択なのである。
世界の社会主義運動は、ほかならぬ「史的システムとしての資本主義」が生み出したものである。それらは、現在の史的システムにとって外生的なものではなく、その内部の過程から生み出された排泄物だったのである、したがって、そこにはこのシステムのもつ矛盾や束縛がそのまま反映されてもいる。これまでのところ、そこから逃れることはできていないし、今後もできない。これらの運動や国家がもっている欠陥や限界、ネガティブな影響などは、史的システムとしてのバランスシートの一部なのであって、いまだ存在していない仮説上の史的システム、つまり社会主義的世界秩序の属性ではない。
共産主義はユートピアであり、どこにも実在しない。(中略)わたしが関心を持つのは、歴史的・具体的なシステムとしての社会主義だけである。このような意味での社会主義は、平等や公正の度合いを最大限に高め、また人間自身による人間生活の管理能力を高め(つまり民主主義を進め)、創造力を解放するような史的システムでなければならない。
(17:15 終了)
読後、facebookに投稿した感想文を、そのまま貼り付けておきます。
【未来への展望】
「貨幣を用いた交易は、異なる共同体の境目で行われる」と言ったのは誰だったか(ウォーラーステインではない、たぶん)。
新しい「史的システムとしての共産主義(Historical Communism)」は、客観的には財務状況の健全な、優良な事業体(company)の顔をしながら、
実質はcompanyの語源どおりの「分かち合い」、共同体内部での無制限の支えあいが成り立っているのではないか。
そうした事業体が各地に、土地ごとの個性を体現する形で現れ、相互に緩やかなネットワークを形成している未来像。
(「社会全体を、たった1つのシステムが包摂する」といった、スケールの大きな話ではない。だからあえて「社会主義」とは呼ばず「コミュニティ主義」と)
その実例であり先駆者として、三重県鈴鹿市の「アズワンネットワーク」には、大いに期待しています。
私と一緒にスタディツアーに参加してくださる方、随時募集中!
0 件のコメント:
コメントを投稿