「我思う、故に我あり」って、ホントかな?

2019年7月17日水曜日

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はい、コーゾーです。
今日はちょっと、とりとめのない話を。

「我思う、故に我あり」(Cogito, ergo sum)

フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596-1650)の有名な言葉ですが、改めて考えると「ホントかな?」という疑問が湧いてきます。

デカルトの論法は、めっちゃ単純に書くとこんな感じ。

 ・真に存在するものとは何か? まずは、すべての存在を疑ってみよう。

 ・“それ”も“あれ”も、実は存在しないのかも。

 ・でも、「存在しないかも?」と疑っている自己の意識は、存在している。
  そうでないと、こういう思考実験は成立しない(何ひとつ、存在しないことになってしまう)。

 ・だから、〈私〉という意識(精神)は存在している。間違いなく。

    ・これが、人間の思考の出発点である。

…とまぁ、こんな具合。

 で、そこからデカルトは「精神が明証的に認識したものは、確実に存在する」と結論づけます。
 (したがって、キリスト教で言う「神」も、明らかに存在する)

 空間的広がりを前提とする「物体」と、思惟を前提とする「精神」とは、形式は異なるものの、それぞれ存在していると言える。これを(山川出版社の『倫理用語集』によれば)「物心二元論」という。

…ここまでは、私も理解できるのです。

 「同意する」ということではなくて、「デカルト氏の言いたいことはわかる」という意味ですよ。

   いっぽう、京都在住の哲学者コーゾー (1974- )はこんなふうに考えます。

 ・1つの個体(ヒト、イヌ、カエル、トンボ、ヒノキの木、何でもいいです)が知覚・理解できる事柄って、そんなに多くはないんじゃないか。

 ・仮に知覚できたとしても、それが「正確な」把握であるはずはないんじゃないか。

 (ヒトが思考に用いる「言語」にしたって、「対象を正確に捉えることなど不可能」というのが、言語学の常識です)

 ・ヒトが何かを考える(理解できる/理解できない)ことの前に、この世界(宇宙、地球)は壮大な秩序(物理、化学、生物の法則)のもとに「存在」しているんじゃないか。

 ・ヒト(ホモ=サピエンス)は、脳の異常発達の結果として「疑う」とか「論理的に説明したがる」とか「(私にとって)論理的だと思えないものは認めたがらない」という、ヘンな性質を持ってしまったのではないか。

 ・むしろ、脳が勝手に作り上げる「意識」とか「精神」とか、そういうものこそ、まずは疑ってかかったほうがいいんじゃないか。

…という感じです。

 別に、デカルト氏と対立する気はないんですよ。これは単純に、思考の出発点が違うのだと思ってます。

 デカルト氏は「〈私〉という起点から思考の努力(=演繹 えんえき)を重ねれば、この世界は普(あまね)く理解できる」という立場なのでしょう。いわゆる「西洋近代合理論」ですね。イギリスのベーコン(1561-1626)のほうがそのあたり、もっと極端ですが。

 私はそうは思っていなくて、「人間の理解が及ぶ範囲なんぞ、タカが知れている」というところから出発します。

 いや、思考をひたすら重ねて「事柄を理解しよう」と努めることは、人一倍好きなんですよ。旧知の方々は、よくご存知かと思いますが。

 でもそれは、自己の努力の結果として「以前より賢くなった」とか「世の中を把握できた」と思いたいからではなくて(いわば「知的支配欲求」から発するものではなくて)、

 「目の前の状況、目の前の人(+生き物)を、どうやったらハッピーな状況にしてあげられるかな」と考えるからです。

(↑「そういう人間でありたい」という願望も、多分に含みます)


 ここまで考えたら、インドが生んだ賢人サティシュ・クマール(1936- ) のこの言葉が、今、まさに聞こえてきました。

 「君あり、故に我あり」(You are, therefore I am)


君あり、故に我あり (講談社学術文庫)
サティシュ・クマール
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 よし、今日は「積ん読」状態だったこの本を、じっくり読んで過ごそうっと!

 (今回もよくわからんオチだ…)
 
哲人・コーゾー


※ちなみに、原著(英語)はこちら↓












※著者のサティシュ・クマール氏。ええこと言うてはります↓(動画4分)。



「もし、みんなが今いる場所を大切にするなら
地球全体が大切にされることでしょう。」(2分24秒)

#####(おわり)

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