場所の悲哀と、喜びと

2014年6月9日月曜日

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さてさて、事業のスタートアップ拠点はまだ決まっておりません。

前述のように「国際派のパートナー」が春先までに加入してくれていれば、その人と相談して決めたところなのですが、やむなくコーゾー1人でリサーチに入る予定。

日本国外のどこかというのは決まりとして、おそらくはアジアの一都市。
日本への観光旅行の出発地として捉えたときに、一定以上のマーケット規模が見込めるところ。

その1つの有力地として、台北(Taipei)のことを見ています。
あくまで候補地の1つ、ではありますが。

そんな流れで、司馬遼太郎『街道をゆく40 台湾紀行』を読んでいます。
いやあ、これは面白い。


そばっち君といっしょ)

『週刊朝日』に連載されたのは1993年7月から翌3月にかけてですから、台湾では「戒厳令の解除」がなされて、まだ5~6年という時期のこと。

私自身、当時(18~19歳)の記憶を思い出しても、台湾(中華民国)については
 「(中国)共産党との闘争に敗れた国民党が大陸を逃れて住み着き、政府をそのまま持ち込んで今も統治している島」
というくらいの認識しかなかったように思います。

せいぜい国際ニュースで流れる政治関連の無機質な情報どまりで、現地に暮らす人々の生活にまで思い至る感じではなく、指導者がどのような国づくりを目指しているのか、という声に触れることもなく。

この本は、今でも「台湾理解の入門書」として様々なところで紹介されていますが、末尾にある対談を読むだけでも価値があります(と、立ち読みを促してみる)。


初めて本省人(=1945年以前から台湾で生まれ育った人)から現れたリーダー・李登輝氏と司馬氏とで、この地に生きる人々の将来について「日本語で」語り合うという、なんとも不思議な一幕です。

その対談のタイトルが「場所の悲哀」。

 李: 司馬さんと話をするとき、どんなテーマがいいかなと家内に話しましたら「台湾人に生まれた悲哀」と言いました。それから2人で『旧約聖書』の「出エジプト記」の話をしたんです。
 司馬: 生まれる場所は神が決めることですからね。今日は総統と2人で、「場所の苦しみ」ということを話したいと思っています。たとえば、いまボスニアで生まれたら大変です。だけど、ボスニアで生まれたら努力してよくするのが人間の荘厳さとは思うんですが。

 李: しかし、ボスニアのために何もできない苦しみがあると思う。台湾人として生まれ、台湾のために何もできない悲哀がかつてありました。


詳細は、実際にお読みいただくとして…。

さて、政治分野にかぎらず、 大なり小なり事業を営む方にとっては

「立地」 → 生産地はどこ? 売り場はどこ?

というのは、非常に重要なポイントです。
しかし最近では、事業運営を行う際の「場所」の概念が、根底から変わろうとしています。

私自身は3年前、新規に事業を立ち上げることを決めたのち、まずは産業構造の変化を「場所」の視点で捉えることにずいぶん時間をかけました。ざっと見渡しただけでも、機械産業、家電、衣料品といった「ものづくり産業」の新興国へのシフトは今後も止まることはなく、さらにはソフトウェア産業でもオフショア開発の流れが進んでいることを知りました。
「どこで開発しても、今や技術水準は同じ。コスト比で考えたら、日本人に発注するなんてバカバカしい。ものづくりだけでなく、ソフトウェア産業もどんどん外へ」
といった感じです。国内でも、場所の制約を受けない働き方として「ノマドワーク」といった言葉がふつうに使われだした頃ですね。

で、新たに事業に参入する身としては、むしろこうした流れに真っ向から抵抗してみたくなり(へそ曲がりなんです)、
 「その土地に暮らす喜びを、お客さまに”おすそ分け”するような事業を作ってみよう」
と思い立って現在に至ります。それが結果として、訪日観光にまつわる情報サービス業になった、というわけです。はじめから、明確な目標に向かって突き進んでいたわけではなく。

有り難いことに、それはちゃんと実現できそうなのですけれど、今はさらに踏み込んで(というか欲張って)、

「その土地で生まれた喜び、哀しみというものを、お互いにしみじみと話し合えるような関係を、お客さまと長期にわたり育んでいきたい」

などと、お商売感覚を離れて叙情的に考えているところです。
相変わらず、”亀の歩み”で申し訳ないですけれど、今はこんな感じの日々。

ああ、台湾に限らず、はよ海外リサーチに行きたいなー。
(上海や香港、シンガポールにも行っておきたいデス)

それでは、また!

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