きょう『ほぼ日5年手帳(2020-2024)』に走り書きした内容が、もしかしたら、自分の思考と行動にブレイクスルーを起こすかも(起こさないかも)。
後で読み返すことを念頭に、ここにも転載しておきます。
【令和3年6月7日のメモ】
・自然界における「理」は、人間感情とは無関係に存在する
例)E=mc² という数式は、ヒトが認知しようがしまいが成り立つ
・こうした式じたいは、ヒトが認知のために用いる道具にすぎず、この式が存在しなくても法則は成立している(これこそが普遍)
・人間界における「道理」は、個人の主体的選択に委ねられている(相対的。普遍ではありえない)
・どのような「理(自然の“法則”)」と「道理(人為的な“作法”)」とを意義あるものとして認識するかは、それまでの「環境(※)」と「鍛錬」に左右される。
「審美眼」とも言い換えられる?
※ここでの「環境」は"environment"というより"surroundings"。『孟母三遷』の逸話で、孟子のおっかさんが大切にしたもの
・尊重すべき「理」と「道理」とを見極める能力… これを磨くには、みずからを啓蒙する意志の有無が、大きな分かれ目
イマヌエル・カントはこう言った:「啓蒙とは、人間がみずから招いた未成年の状態から脱出することにある」
(コーゾーとしては「脱出するための、飽くなき努力こそが“啓蒙”である」と言いたい)
カント(中山元・訳)『永遠平和のために/啓蒙とは何か』 |
・個々人の主体的選択に基づく「道理への服従」が、その人の精神を安定させる
→人類の大多数が「宗教的教義(ドグマ)」を尊重する理由も、ここにある
宗教的教義とは… 過去に他者が創造&提唱し、伝統として継承された(その継承の過程で、種々の潤色が加えられた)世界観の体系のこと
(日本人の大多数は、山本七平の言う「日本教信者」?)
山本七平+小室直樹『日本教の社会学』 |
・個々人が(多くは、無意識のうちに)ドグマを持つことは、ヒトという生きものにとって、ごく自然なこと
みずからが抱くドグマを「自覚」し、人間社会の中で「相対化」し、日々の実践において、良い意味での「独善」を為せばよい
・この「ドグマの自覚と相対化」は、非常に困難なことだが…
→「大人になる」とは、そういうこと
以上
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こうして眺めると、「ごく当たり前のこと」しか書いてない気がする。
それでいいんだと思う。
日々の「生」と真摯に向き合うとき、奇をてらう必要などないのだから。
【おまけ】
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